”彼”は一人、目を覚ました。
寝台の柔らかい感触を右の頬に感じる、上には何もかけていないのでやや肌寒い。
頭に鈍痛がはしっている。寝ぼけているのだろうか、頭の芯はぼーっとかすんだままだ。
彼は、のろのろとベッドから起き上がった。
高級ホテルのスイーツを思わせる室内は明かり一つついていなかったが、何故か彼の眼には物がはっきり見えた。
バルコニーに繋がる窓に近づけば、月光に照らされたものさびしい森が見えるばかり。強風が吹き荒れているらしく、針葉樹ばかりの木々は強い風にたわんでいた。
その動きをしばらく目で追っていると、頭の霧が徐々に晴れてくる。
そして、ふと彼はある事に思い至った。
室内を見渡し、壁にかけてある鏡を見つけると、夢中にそれを掴むようにして己の顔を映しこむ。
黒い短い髪、血を絞ったような瞳、不健康すれすれといった白い肌。これは確かに自分の顔なのに・・・・・彼にはさっぱり見覚えがなかった。それどころか、自分の名前すら思い出せない。

自分は誰だ。

ふと恐ろしくなって、鏡を手放す。ごとん、と重い音をたてて、鏡は地面に落ちた。
毛足の長い良質の絨毯が、鏡を割ることなく、優しく受け止める。
彼は自分の体を見下ろした。黒いスーツは少し寝乱れているが、かっちりときこまれている。胸ポケットの膨らみに気付いて、探れば、なにか固い感触がある。

『新羅・総務部調査課・・・ヴィンセントヴァレンタイン・・・』

カードのようなものには細かく文字が書かれており、右上には小さな写真が貼ってある。それはまぎれもなく鏡に映った顔であった。

(社員証・・・?)

ヴィンセント・ヴァレンタイン、と名前を口に出してみる。まるで覚えがないが、これが自分の名前か、なぜか知らないが懐かしいような口触りである。
腰のあたりにも違和感を感じて、彼はまた手を伸ばした。すぐに触れる所に、固い感触がある。
引き出してみれば、それは銃器であった。驚いたが、グリップのところが手になじんでいる。これは自分のものだ、と確信があった。

(ともかく・・・ここを出なくちゃ・・・・)

銃を見ていると、なぜか緊張や混乱が少し和らいだ。
彼は銃を無意識に元のホルスターに戻し、部屋の扉から外へ出た。







屋敷の中で、人を呼んだが、何度叫んでも答えは返ってこなかった。見知らぬ広い屋敷の中をおずおずとさ迷ううちに、彼はようやく玄関らしき場所にたどり着いた。
下手なリビングなら二つは入りそうなほど、広々としたエントランスホールである。
無論そんな玄関にふさわしく仰々しい扉は、誰も通さんと言わんばかりに重々しく佇んでいたが、両の手に力を込めて押せば、案外抵抗なく開いた。
風はやはり強かった。飛ばされてきた砂粒が頬にあたり、彼は眼を細めながら外に踏み出そうとした。
ふとその時、襟首を後ろから思い切り引っ張られる。

「ぐっ」

そのまま腕もつかまれ、彼は屋敷の中へ引き戻された。
エントランスホールを突っ切り、押し込まれたのは食堂だろうか。二階までぶちぬいた作りの、百人は入りそうなほど広い室内に、長い机やいくつもの椅子が整然と並べられており、天井まで届く広い窓からは外の森が一望できた。

「おい、ヴィン」
「・・・・・え?」

振り返れば、自分をここに引きずってきたらしい男が、自分を覗き込むように見ていた。
少し童顔の、中途半端に伸びた茶髪を背中でひとくくりにした青年である。
青年は警戒心のない顔で言った。

「大丈夫か?今、外に出るのはヤバいって、それより・・・・」

彼は半ばすがるようにして青年につめよった。

「あなたは誰ですか?」
「は?」

男はいっしゅんきょとんとした後、慌てたようにまくしあげた。

「俺だよ俺!覚えてないのか?」
「すいません・・・」

奴らに、なにかされたな。と青年は舌打ちして、考えるように黙り込んだ。
彼はおずおずと尋ねた。

「私の事を・・・知っているんですか?」
「自分の事も覚えてねぇの!?それって、完璧記憶喪失じゃんか!!」

青年は彼の頭をぽんぽんと叩いた。

「とすると、待てよ・・・・なぁヴィン・・・ヴィンセント、お前もしかして“あいつ”の事も忘れてるんじゃ・・・・」

青年の言葉は轟音にさえぎられた。
驚いて二人が外を見ると、暗かった森が照明で昼間のように照らされている。
ヤバい、と青年はヴィンセントを立たせようとするが、ヴィンセントの眼は、照明の光を背負った窓の外にある黒い影しかとらえていなかった。


【バリーン!!】


ヘリから垂らしたワイヤーを頼りに、振り子の要領で、突然の訪問者たちは窓を突き破った。
ヴィンセント達は飛び散るガラスの破片から身を守るように、手をかざす。

「さーて、こんな夜更けにまだ起きているのは誰かな?」

やや緊張感に欠ける声がして、彼等はかざしていた手をどけた。
見れば、重装備に身を包んだ六人分の人影が、銃を構え油断なく彼らを囲んでいる。背丈はまちまちだが、フルフェイスのメットを被っているため、性別は分からない。

「ヴィンセント・ヴァレンタインだね?」

先ほどの緊張感のない声の主が、自分のものらしい名前を呼ぶ。彼は状況が理解できないまま、頷く事もできず、ただ立ちすくんでいた。

「隊長、セキュリティシステムβが作動したものと思われます」

女のものらしい声が聞こえる。隊長らしい男は、構えていた銃をおろした。

「あー、それは可哀そうに」

男は無線機をメット越しにかざすと、帰っていいよ、とややくぐもった声で誰かに向って指示した。すると、外の照明と轟音が遠ざかっていく。どうやらヘリは帰ったようだった。
室内に静寂が戻る、かと思ったがあまり静かにはならなかった。割れた窓から風が吹き込んでくるのだ。
さみ、と彼の傍にいた青年はひっそりとため息をついた。

「・・・・こんなことしなくても、玄関あいてるから入れるのによ」
「まったく同感です」
「そこ、聞こえてるよ」

男はヘルメットを脱いた。すると、夜だというのに、胸ポケットから赤に近い紫のサングラスをはずしてかける。
髪の色も同色であるが、おそらく染めているのだろう。
男はまた銃を構えて青年に詰め寄った。

「君は知らない顔だな。この屋敷になんのようだい?」
「企業秘密って言ったら?」
「不法侵入でバキューン」
「・・・・警察だよ、行方不明者の捜索だ」

青年は肩をすくめてそう言った。
とてもそんな職業には見えないな、と彼は思ったが、青年は胸ポケットから慣れない動作で警官バッチを取り出した。男はそれを受取って、注意深く眺める。サングラスをしているから見づらいのかもしれない。

「これからあんた達を公務妨害で逮捕したいなぁ、なんて」

青年がジーンズのベルトに挟んでいたらしい手錠をちゃら、と見せると、先ほどの女がそれを奪って、青年の手首を拘束した。

「隊長、その子の名前、警察のデータバンクには入ってないわ」

別に女の声がした方を見れば、背中の半ばあたりまである黒髪を垂らした女が薄いノートパソコンをいじっている。
青年は弁明した。

「転勤してきたばっかで、登録されてないんだよ。ここ田舎だしな?」
「そう言う事にしておいてもいいよ。どうせ関係ないからね」

男はヴィンセントの前に立った。

「さぁ、おいで。君が僕らの案内人だ」

ヴィンセントは不安げに青年を見た。ほんの数分前に出会ったばかりだったが、数少ない自分を知る人間として、奇妙な信頼があった。
青年はそれに気づくと、気さくにウィンクを返し、大丈夫だって、と頷いた。

「あ、俺の名前はライル・フィールド。何度も教えるのは恥ずかしいから、今度は忘れるなよ」


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彼は地下に連れて行かれた。
ワインセラーの棚をどかすと、巨大な金属の扉が現れる。

「これが地下施設ミッドガルへの入口さ。緊急用のこの扉を外から開けられる人間は、今のところ二人しかいないんだ」
「・・・・どうやら、私らしいですね」

そういうこと、と言って隊長の男は部下の一人に指示した。部屋をでてから全員がヘルメットをとったため、顔や性別の識別ができるようになっていた。
男が三人、女が三人。今指示されたのは、若い男の隊員である。
彼がノートパソコンと扉をケーブルでつなぎ、なにやらせわしく指をキーボードの上で踊らせていると。隊長は部下を振り返った。

「ミヤビ君と、ヒューゲン君はここで外を見ていて。何かあったら連絡をお願いね」
「やったぁ!」
「ふぅ」

男と女の隊員は二人で安堵のため息をついた。

「そう、あからさまに喜ばないでよ・・・・ここで出番終わりなんだから」
「だって、明らかに“死亡フラグたってます”もん」
「くらいところは好かんですたい」
「・・・・・あぁそう」

隊長は切ない溜息をついて、パソコンをいじっている隊員に視線を戻した。
「できました。手をモニターに置いてください」

隊員は彼を振り返って言った。ドアの一部があわく光っていた。
彼は一応尋ねてみる。

「置いたらかえっていいですか?」
「却下」

ヴィンセントはしぶしぶドアに手をのせた。
ドアはしばらく迷うように静まったあと、ゆっくりと開き始めた。
黒い地下へ、灰色のコンクリートの階段が続いている。ちかちかとひ弱なライトが足もとを照らした。入口というにはあからさまに怪しげである。

「・・・・・これって確かに死亡フラグっていうよな?」
「言いますね」
「言うわね」
女性隊員も同調し、それぞれが不安な門出に胸を痛めた。


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地下への階段をおりると、鉄道が敷かれていた。緩く傾斜し、下へ下へと続く線路の先は暗く、分からない。
案の定彼とライルは電車に乗せられ、ひどく揺れる車内でお尻の痛い思いをしていた。

「あたしはロゼット、こっちのちょっと眼付の悪い子がレインで、三下ポジションの彼がヴェルド君よ」

前髪を切りそろえた、印象的な美人は、フレンドリーに自己紹介をした。

「僕の紹介は?」

運転席にいた隊長が、振り返って手を振った。

「自分でしてくださいよ、隊長でしょう?」
「ちぇー中間管理はつらいねぇ・・・・自動運転、と」

彼はヴィンセントの向かいに腰を下ろすと、にっこりとほほ笑んだ。

「僕はアースティンだよ、よろしく」
「・・・・・・私はいつ帰れるんですか?」
「僕らのミッションが終われば、帰れると思うよ」
「こいつはそのミッションがなんなのかを、知りたいんだとおもうぜ?」

補足するようにいったライルを、とんでもない、と彼は睨んだ。

「知りたくはないです、興味もありません。第一知ったら、深入りする羽目になるじゃないですか」
「・・・・そうきたか」

アースティンはでもね、と言った。

「自分が何者かくらいは知りたくないかい?」
「・・・・・・・・・できれば、あなた達以外から聞きたかったですが」

じゃあ教えてあげよう。アースティンは自分の腰についている軍用ポーチの中から、薄い端末を取り出した。スイッチを入れて、数回ボタンを押せば液晶画面が光を取り戻す。
彼とライルが覗きこめば、何かの簡易化された地図のようなものが出ていた。

「上の四角がさっき出てきた建物、そこから延びる道みたいなのが今はしっているスパイラル式の線路を表している。これは地下へと向かっているんだけれど、僕らの目的地はこれの最終地点・・・・ここだね」

アースティンは液晶を指でこつこつ叩いた。

「地下研究所ミッドガル。ここは、特別な研究所でね。人工知能に完全に制御された、最新鋭の装備がそろっている」
「なぁんか、怪しいな。上の屋敷は新羅のものだろう?」
「そう、新羅の秘密研究所さ」

嫌なこと聞いちまった、と眉をへにょっとさせたライルの隣で、ヴィンセントは首をかしげた。

「新羅って・・・なんだ?」

そう言えば彼の社員証にも書いてあった名詞である。会社名だろうか。

「おいおい、そんな事も知らねぇのかよ!」

ライルは驚いたような顔をしたが、アースティンは冷静に説明した。

「新羅は世界最大の複合企業さ。医薬品から戦争兵器まで取り扱っているんだ」
「私の・・・社員証にも書いてありました。私はそこの社員だったのですか?」

「だったじゃなくて今も勤めているんだがね。その通り、君は特殊工作員として上の屋敷を警護、いわば秘密(ミッドガル)の番人だったわけだ」
「はぁ」

彼は気の抜けた返事をした。記憶がない身としては寝耳に水だ。

「実はもう一人・・・・」
「隊長」

眼つきのわるい女、黒髪を高い位置でくくったレインはアースティンを呼んだ。

「なに?」
「上になにかいます」

全員が静まり返って上を見る、耳を澄ませば電車が揺れる音に加え、かすかに叩くような音が聞こえてくる。

「ロゼット君、電車を止めて。レイン君は扉を開いて。僕が様子を見よう」

隊員は素早く行動した。徐々に電車は失速し、そこを見計らってレインが扉を開いた。
アースティンは俊敏だった、開いた扉の枠を掴むと、片手で一息に体を持ち上げてしまう。もちろんもう片手には銃を構えて、だ。
レインとヴェルドがすぐに線路に飛び降りて、援護の構えをとる。
彼はライルに耳打ちした。

「スピード出したら振り落とせたのではないですか?」
「いや、それは流石に鬼畜じゃね?」
「そのとおり」

上から初めて聞く男の声がした。二人が見ると、開いた扉の上部から、知らぬ人間の生首がぶら下がっている。
二人が声もなく驚いていると、生首男はひょい、と天井から飛び降りた。下で待機していた二人に銃口を突き付けられても構うことなしに、特等席の乗客は、固まっている関節をほぐした。

「寒いし、辛いし、最悪だ」

男は長身の彼に匹敵するくらい、背が高かった。着ているものも似たようなスーツで、年齢も同じくらいだろうか。毛先に行くほど癖のある黒髪が印象的である。
はねる毛先を見ていると、彼の脳裏になにやら懐かしさがよぎる。初めての感覚に、彼は息をのんだ。
男はしばらく二人をまじましと見た後、おもむろに尋ねた。

「で、おたくら俺が誰だか知ってる?」
「「は?」」

耳遠いの?と言われ、もう一度同じことを聞かれた後で、やっと二人は彼も記憶をなくしている事に気づいた。
上から飛び降りたアースティンが、やれやれとため息をつく。

「ヴィンセント君、君と同じ仕事をしていた人間が実はもう一人いるんだ。彼はアルルカン君、もう一人の秘密の番人さ」

それを聞いたとたん彼は立ち上がると、同僚らしき男・・・アルルカンの肩を叩いた。

「あとは任せます」

返事も聞かずに電車を飛び降りる。すたすたと元来た線路を逆走し始めた彼に、アースティンさえ呆然としている中、その腕を後ろから掴んだのはアルルカンだった。

「何をまかされたかはわからんけど、嫌だ」
「貴方ならできる、そんな気がします」
「始めてあった奴に頼られるいわれはない」
「始めてではないらしいですよ。見覚えもある」
「奇遇だな、こっちも見覚えがあるね」
「じゃあ、昔のよしみで手を放してください」
「絶対に嫌だ」

喧々囂々言い合う二人に、完全においてけぼりを食らわされていた隊員たちとライルだったが、しばらくしてアースティンはレインとロゼットに二人を捕まえるように命令した。


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アースティンは記憶を失ったアルルカンにもう一度同じ説明を繰り返すはめになった。しかし傍聴人は感動には程遠い顔をした。

「記憶はいらないから、帰りたい」
「自分探しという年でもないですしね」
「年覚えてんの?」
「社員証に書いてありますよ」

黙っていればいつまでも話しそうな記憶喪失コンビの代りに、ライルが尋ねた。

「で、こいつらは上の係なんだろ?なんでわざわざ下に連れて行かなくちゃならねぇんだよ」
「よくぞ聞いてくれました」

電車が着く前に本題に入りたかったんだよ。と切ない声でアースティンは言った。

「ミッドガルが十二時間前に、突如本社のメインコンピュータとの接続を絶った。非常事態発生、これよりミッドガルを封鎖します。とだけ残してね」
「封鎖しているならいいじゃないですか」
「そうもいかない。そうなった原因も調査しなくてはいけないし、研究所内には三百名を超える研究員がいるはずなんだ」
「死んでる気がするな」

アルルカンが言った。ライルが一瞬びくりとそれを見る。

「まぁ、その確率が高いだろう。メインコンピュータが唯一換気システムにハックして、通気はされているが、彼女が封鎖と言ったら、それは内部の人間を外に出さないという意思表示だ。彼女は室内の人間を全滅させる力をもっているから・・・・おそらくは」
「彼女?」
「ミッドガルの人工知能、ブルークイーンのことさ。彼女のハードを持ち帰り、調査することが僕らの第一目的ってこと」
「その為の案内が、私たちですか」
「広い研究所だ。僕らじゃわからないし。君らの個体情報は、特別に研究所内のどんな場所でも立ち入ることができるように登録されている」
「でも、記憶を失っているんですよ?」

アルルカンも解せない顔をした。

「肝心の案内二人がそろって記憶喪失ってのも、おかしい話だけどな?」
「セキュリティβだ」

二人の後ろで声がした。レインが睨むように二人を見ていた。

「ミッドガルは最高機密の結集だ。機密保持の為なら、大抵の事はする。研究所員を殲滅させたり、番人の記憶を消したりな」
「故意に消されたのか」
「神経ガスでな。まぁ一時的な処置でしかないから、できるだけ早くお前たちには記憶を取り戻してもらわなくてはならん」

二人は顔を見合わせた。

「有毒っぽいですよね」
「他にも悪影響がありそう」
「人権的にありなんでしょうか?」
レインが無表情に銃口を持ち上げた。

「隊長、こいつらイラつくから撃っていいですか?」
「それも作戦が終わってからにしようね」

その時運転席にいち早く退避していたヴェルドが声を上げた。

「そろそろ終着ですよ」
ライルと向き合って座っていたロゼットが唇を尖らせた。

「あら、七並べ優勢だったのに」
「トランプ持ってきたんですか?」
「手錠してるから、超やりずらいー」

全部終わったら転職しようかな、とアースティンは思った。


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